あたらしいひと
2016年11月6日

人はたいてい、何に対しても思いを乗せて見てしまって、さらにはその思いを乗せたまま降ろそうとしない。

自分にとって良いことは良いこと、悪いことは悪いこととして固定化してしまう。

だけどそれらは縁によって一時的にそのような形で表れただけ。とどまるようなことじゃない。いろいろしんどくなるのは、流れ去るものを流れていないかのように見るからで、思いをとどめてしまうからだ。

 

「すべては縁の中にある」という気づきを生きていると、流れ去ることをあまり追いかけなくなる。


移り変わらないものとして世界を見れば、なんでもかんでも古くなってしまうようだけど、移り変わってゆくこの世界はあたらしいまま。いま、この関係は、いま、ここで、初めて結ばれるもので。

 

そうやって、その都度、世界とあたらしく出会いなおしているような妻と、今日もあたらしく出会える。文字通り有難いことだなあと思う。





なんでもなさ
2016年5月9日

川沿いに咲いている名前を知らない花を見て、不意になんともいえないなつかしさを憶えた。


こどもの頃の近所の風景と重なったから、ということだけではない気がした。


名前を知らない花が、なんら私の想いを乗せることなくただ咲いている。


いのちのあらわれというのは、このなんでもなさ、ただそれとしてそうあることだ。


なんでもなさがなつかしいのだ。


いつも私から見られるものごとは、なにかしら私の想いがくっついて、このなんでもなさが隠されてしまっているのだろう。


このなんでもなさは、取るに足らないということではない。

 

取るに足らないなんでもなさというのは、意味になっている。


私が想いを乗せてしまっている。


しかし本来のいのちのあらわれとしてのなんでもなさは、意味以前だ。


花の名前が知れないなら、花を見る私の名前もまた知れない。


花がなんでもないなら、私もまたなんでもない。


私が花を見ているということもない。

 

どちらかがどちらかをを見ているということもないのだから。


そういうそもそものいのちが、花を、私を生きている。


なんでもなさが訪れて、その事実が不意に思い出されたから、普段忘れてばかりの私はなつかしかったのかもしれない。


まあ、そうではないかもしれないけど。

 

 

 

 


順序は逆
2016年5月8日

「私」が前提になっているままで仏教をとらえようとすると、道徳とかヒューマニズム、「私の」心の話になってしまう。

どうしても「私」にとって都合のよいものにしようとしてしまうよね。

空の広がりから見たいのちというのを「長い歴史の中でつながっているいのち」とか言っても、どうだろう。空の広がりは歴史とかそういう「時間」を前提にしたものじゃない。かといって空間でもない。だから「広がり」ということでもないんだけど。

いのちは直線的に続いてるものではなくて、円環的なもの。はじまりもおわりもなく中心もない。

今この体を持って生きている私のいのちと、体は既にない、いつかの誰かのいのちが、時間の流れにおいて「つながってる」なんてもんじゃなくて、まったく「おなじ」いのちとして、何も変わることなくいま、ここにある。

つながる二つがそもそもない。

だけど「私」が前提になっていると、時間とか空間とか、そのほかなんでも対象化して、その対象が私にとってどうなのか、って話にしてしまう。

それは人の視点であって、仏の視点じゃない。

仏教は枠の外に出るものだけど、そもそも「私」が枠であって。

だから「私」が見ても見えないし、「私」が聴いても聴こえない。「私」が掴もうとしても掴めない。だけど「仏が私を」掴むということがどういうわけか起こる不思議。

順序はいつだって逆。

とか言いつつ、こんな話をすぐに「私」が聴こうとしてしまう。だけどそれさえも仏の掌の上で起こっているんだよね。

 

 

 

 

 


ないことはあること
2016年3月19日

「まぼろし」が消えると、“ほんとう”が残る

 

 

この「私」が確かな実体を持って「ある」と疑いようもない状態では、当然、時間も空間も疑いようがないから、とにかく、なんでも順序立てて考えてしまう。

 

あれがこうなったから、こうなって、それによってまたこうなった、とか。これがもっとこうなれば、きっとこうなるはずだ、とか。

 

だけども、「この私」という実体、参照点というか、それがまったくない最もシンプルな事実からすると、はるか彼方であるはずの未観測の星々も、ただ「ここ」にあって、百数十億年前だかに起こったはずのビッグバンも、「いま」起こっている。

 

なにをどうしたから、ということはなく、すでにそのようになっている。

 

なにかをできるような「私」がない。

 

時間も空間もなく、誰もいない、なにもないここで、すでに成就されている。この成就が南無阿弥陀仏なのだろう。

 

なにもなくて、すべてある。この不可思議。

 

飽きようのないこれ。

 

 

 


縁とか
2015年10月21日

先月、夫婦で何度目かの四国遍路に行ってきた。歩いたのは24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)がある室戸岬から、高知市長浜の33番札所雪蹊寺(せっけいじ)まで、およそ120Kmほど。

 

今回も、出会う風景や人とか、妻との会話とか、疲れ切って眠るとかいろいろ良かったんだけど、毎回歩いていて面白いのは「縁」というものが強く意識されることかなと思う。

 

28番札所大日寺近くの宿「遊庵」で、ご主人の奥様からこんなお話を伺った。

 

奥様は愛媛の札所のお寺近くに生まれたものの、お遍路についてはつい最近まで特に興味もなく、遍路宿をやることになるなんて考えてもいなかったそうだ。それがどういうわけか、今では実際に歩き遍路をするまでになったのだという。

 

「縁という言葉なんて、『結婚の縁』とか、そういうことくらいのものだと思っていて、これまで全然意識していなかったの。だけど、気がつけばこういうことになっていて。」

 

偶然に偶然が重なって、たまたま、今この場所で、遍路宿をやっているだけなんだと奥様は仰っていた。続けて、

 

「まったく自分で思い描いた通りのことではないんだけど、今が一番幸せかもしれない。そう思うと、これまでの色々なこと、ああこれが縁なのかなって。今は自分でこうしてやろう、っていうのがないのよ。だから楽ね。なんでもいいの。」と。

 

素敵だなあ、と思った。

 

自分でこうしようああしよう、というのがないのは、無責任という意味で受け取られることもありそうだけども、もちろんそういうことではなくて。

 

「私がしている」というところから離れてみると、すべてを成り立たせている無数の縁が見えてくるし、そもそも縁でないものなんてないことにも気づく。

 

この私が、「あの縁」と「この縁」によって成り立っている、という話ではなくて、ただ数えることのできない縁の中に組み込まれて、表れているという、その事実が迫ってくるというか。

 

そしていま、このようにある、「そうなっている」ということそれ自体には、「この私」は関わりながらも関わっていないというか。途切れ目の無い縁の中で、独立したこの私というものはそもそも無いんだと。

 

この私がやっているように見えること、でもそれは私がやっているようで、ほんとうはなにもやっていない。やっていることなど何もなくて、ただ起こっているというのか、流れているというのか。

 

お遍路というのは、そういった「縁」に気づきやすいのかなと思う。「それをそうさせているはたらき」。それは仏とも呼べるもので。

 

歩いていると、仏はお寺のお堂にいる(ある)ものではないことが明らかになってくる。それはどこかに独立して、ポンと存在しているわけではなくて、いつだって、いまこの私と離れていない。そういうことが、すんなりと思い出されるような。「ああ、そうだったな」と。

 

曼荼羅に見るような、存在するすべてへの肯定、そこここに仏を見出していくようなこと。とっかかりはいたるところにあって。風がふくとか、鳥が飛んでるとか、足が痛いとか、なんでも、そのはたらきをとっかかりにして、そこからいつだって、「そもそも仏でないものはない」というところへ目を向けることはできる。

 

そして目に見えるもの、見えないもの、それぞれの表れ、そのはたらきを、肯定して肯定して肯定しきったところに、ただある、大元のはたらきが表れてくるような気がする。

 

この私を含んでいながら、この私ではない、それ以外ないところの大元のはたらき、それを大日如来と呼ぶのだろう。

 

ともかく、その既にあった縁を見出して、あれもこれも抱き含めているそのはたらきを感じて、奥様は「なんでもよい」と仰ったのではないかと思う。

 

ただ任せること。はからいのなさ。その縁の、つながりの中でただ生きてみれば、それは「なんでもよい」のだ。どこまで行っても、どこにあってもそれは仏の掌の上だっていう。

 

歩いているとその全体性というようなものが鮮明になる感覚がある。自然とそこを感じるお遍路さんも多いんじゃないかなあ。まあなにも、そういった感覚はお遍路中に限ったようなことでもないだろうけど。決しておおげさなことではないんだしね。

 

とにかく、全体性からこの私を生きていく、そこに尽きるというか、そこを自覚していたいなあと。いやしょっちゅう忘れてるけど、できるだけ、できるだけ。

 

 

 

 

 

 


沈黙と念仏と
2015年6月12日

言葉を重ねてみてもどうにもならないな、とも思う。ほんとうのほんとうとして在るなら、もうそれは沈黙にしかならない。

 

言えることなんて何もないなあ、と、あれこれ言いつつ思うわけです。

 

いやたしかに言葉はいろんなところへ導いてくれるし、素晴らしい言い方で、それを指し示す人はたくさんいるけど。

 

しかしそれでも、「ここ」においては言葉は消えてしまうし。

 

主体も客体もない、対象がないところでは、対象を前提にした言葉自体、そもそも成り立たない。誰が誰に言葉を発するのか、っていう。わたしもあなたもいないところで。

 

そういえば大学の卒論で書いたテーマが沈黙だったんだけど、つまるところはこういうことを言いたかったのだろうなと。今思えば。まあ当時は仏教的なこともほとんど知らなかったし、いろんな文脈に触れていなかったから、かなり漠然としていたけど。それでも、まったく無価値なものとしてスルーされがちな沈黙に、何かほんとうがあるんじゃないかと感じていたことは確かだった。しかし「沈黙についてあれこれ述べる」というのもなかなかの矛盾ぶりというかなんというか…。

 

ともかく、沈黙に答えがある、というか沈黙がそのまま答えなんだよね。

 

と、ここで念仏についてちょっと浮かんだので書くけど、南無阿弥陀仏というのは、一応言葉としての体を成してはいるけど、言ってみれば沈黙の言葉なのだと思う。

 

言葉じゃない言葉というか。もうそんな言い方ばかりになってるけども。

 

言葉が無くなったところでの言葉。言葉以前の言葉。だからそれはすべての答えになるんだね。

 

一方で南無阿弥陀仏をただ言葉として称えていたら、それはただの言葉でしかないということで。

 

念仏を何遍称えようが、それはただの言葉であって。

 

親鸞さんが、ただ一度でも念仏を称えられたらそれでいいという風に言われたのもこの辺のことじゃなかろうか。

 

念仏は数ではなく、積み重ねではなく。そこに時間はなく、因果とかもなく。だって沈黙において、一度でも念仏を称えられたら、既にそれは称えられていたことがわかるんだし。常に、称えられていたことが。

 

そこではもちろん、念仏する誰かはもはやいないから、念仏が念仏するという表現にならざるを得ないよね。宇宙は完全に自動運転だっていう。阿弥陀仏というのは名前以前の名前なわけだから。念仏するというのは、すべての名前の放棄でありながら、同時にすべての名前を呼ぶことなんじゃないか。そしてそれは「わたし」の名前なんだろう。

 

とにかく、言葉以前、意味以前、分断以前のそれ、その沈黙に立ち還ってみれば、そこにすべては成就していて。それ以上の何があるのかって、もう何もないじゃん。

 

何もないんだよ。

 

 

 

 

 

 


夢も現も
2015年6月11日

夢の中で何か大きな問題に直面していた。内容自体はよく憶えてないけど、楽しい夢とか怖い夢とか訳のわからない夢とか、そういう類ではなかった。はっきりした一枚絵のような夢ではなくて、そこに改善すべき状況があるという、なんというか立体的な夢。どうしたものかと焦りつつ、うぐぐ…となっているところで目が覚めたんだけど、その瞬間、「なにもないじゃん」、と脱力した。当たり前だけど。

 

だけどそれが妙に、今目が覚めた自分にそのまま当てはまった感じがして。

 

問題が起きている場所もなく、問題を起こしている人も、問題を起こされている人もいなかった。何も起きてはいなかった。何もなかった。どこかに行っていたような気がしていたけどどこにも行ってなくて、ただずっとここにいただけ。複雑な物語の中に放り込まれている気になっていただけ。

 

目が覚めたときの「なにもないじゃん」が、そのまま目を覚ました現の自分に重なって響き続けていたというか。夢か現かというけれど、現といわれるものもまた夢であって、自分は普段何重にも夢を見ているんだな、ってことを改めて思ったというか。

 

夜寝ている間に見た夢から覚めてもまだ見ている夢の自覚。そうだったそうだった。

 

「物語」というのがそもそも夢に過ぎないわけで。そこに物語を見出しているなら、まったく同じことだよね、夢も現も。

 

ほんとうは物語なんてないし、何も起こっていない。どこにも行かない、行きようがない、自分はただ「ここ」にいる、そういうほんとうのリアルを、夢によってまた思い出す。これはなんだか妙な感じで面白かった。霊的な夢だとかなんだとか、夢にはいろんな不思議な話があるけど、その内容に関わらず、そもそも夢というもの、その構造自体がとんでもなく示唆的なものなんじゃないかなーと思った次第です。不思議でもなんでもない話。

 

 

 

 

 


どちらでもないところ
2015年6月9日

言葉が指すものを固定化して、実体として捉えると、重苦しい世界に生きてしまうというか。まあそれもそんな気がしているだけに過ぎないということではあるけど。

 

「すべてがすでにそれである」というところからすると、いろんな言葉がストンと来る。

 

煩悩即菩提とかいうけど、煩悩が菩提(悟り)に転じるとか煩悩がなくなったところに菩提があるとか、そういうことじゃなくて、煩悩が煩悩のままで煩悩でなくなる。

 

生死即涅槃だったら、生死が生死のままで生死ではなくなる。即身是仏だったら、わたしがわたしのままでわたしではなくなる。色即是空というのも、色が色のままで色でないというところで、それがそれのままでそれでない、これに尽きるなあと。

 

有るでもないし無いでもない。どちらかではなくて。

 

ありながらない。どちらも包み込んだところにただあるそれ。

 

上に挙げた言葉はどれも同じで、それがそれのままでそれでないというところに、ただ在るものが「在る」ということ。それが菩提だし涅槃だし仏だし空だし。

 

すでにどれもがどれでもなく、ただ「それ」であったというだけ。まあいつもの話です。

 

これを有る、無いのどちらかで捉えると、どちらかの状態を目指してしまうことになる。それを延々と続けてしまったりして。キリがないよね。どこに行こうとしたって、どこに行くこともないんだし。辿り着かない。

 

だけどありながらない「即」においては、目指す者も目指されるものもない。

 

結局なんだってよくて、いつもそこを根底に生きていたいなあってこと。まあそれがなかなかアレで、なんだってよくなかったりするけど。それでもほんとうのほんとうは、なんだっていい。何がどうだろうと、それでしかないんだから。

 

 

 

 

 

 


むなしさから
2015年5月27日

これまでそこに置いていた価値ががらがらと崩れてしまって、どこへ行ったらいいのか、何をとっかかりにしたらいいのか、全く分からなくなって途方に暮れる。そういうことが、何か「ほんとう」を求める人たちには当然あるんだろうけど、それはもちろん否定されることではなくて。そのむなしさは大きなきっかけになるよね、ということをここ最近また思い返している次第です。

 

有ると思っていたことが無かったこと、その衝撃。それは人を苦しめるけど、そこを受けいれてみれば、「ああまったくこれは正常なことだった」と気づく。諸行無常、諸法無我、これはまったく特別なことじゃなくて、すべてのことにおけるただの前提であって。だから涅槃寂静というものもまた、ただ当たり前に「在る」。

 

しかし何というか、そういった有ると思っていたことが無いということ、突き詰めれば「わたしというものはない」ということ、この事実を、やはりどうしても、「この私」が捉えようとしてしまうんですよね。

 

「この私」が捉えようとする限り、そこにはどうしたって「物語」が生まれる。どうしたってその物語に浸ってしまうなと。そこに「この私」が至ろうとしてしまうし、得ようとしてしまう。散々文章で「わたしはいない」を目にしていても、「何かやってしまう」んだ。それが悪いってことではない。そりゃやってしまうよ、人間だもの。

 

それをもうただひたすらに、何の物語も入れず、何の味付けもなしに、「私はいません」てことをズバっと言ってくれる人が出てきたわけだから、そりゃみんな混乱しますよ。伝えるためには相手という対象があるわけだから、多少なりとも物語って入れちゃうもんだけど、もはや彼女は伝えようともしていないわけで、だからもう何もかもをバッサリ。身も蓋もないことこの上なしという。

 

「そこまで言うか…」と呆然としてしまう方はけっこういるようで。これまで探求してきたこと、やってきたこと、そのすべての価値が、今またがらがらと崩れてしまっていたり。「あーあ、もう何がなんだかわからん!!」と。それは物語を越えたところにあると思っていた物語に置いていた価値。だけどほんとうのほんとうはそれさえもないということ。

 

私もちょっと「なんだかなー」という気分になって前回のような記事を書いたりしたけど、しかしまた、ここでやってきた混乱、むなしさは、大きなきっかけになるだろうなとも思うので、なんというか、「もう、なんでもいいな。」という気持ちです。

 

この「物語のなさ」、言ってみれば「救いのなさ」というのが、結果的に救いになるというか、まあほんとうは救いも何もないわけだけど、この徹底した「なさ」が、自我(だと思ってるもの)を揺るがすのかなって。身動きできないところまで、「完全に」追い詰められてしまって、そうなったら、後はもう降参するしかないよね。その降参は、なさずになされること。そこにはもはや1ミリも「この私」によるところはない。

 

「計らいを捨てよ」と親鸞さんも言っているけど、この完全降伏によって、初めて「明渡し」がなされるのだろうな。完全には降伏できないもんね、なかなか。そりゃ計らってしまうよ。

 

そういうことが今起きているんだろう。(起きてもないけど、ってもう文にするのも面倒だな…!)

 

とにかく、むなしさからまた始まるということで、むなしさを歓迎したらいいし、しなくてもいいけど、この私も含めてみんな大いに混乱して、むなしくなったらいいんじゃないかということです。それもまた恩寵かもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そもそも恩寵でないということはないし、恩寵だということもないし。やっぱり、なんでもいいな。既にそうなんだから。

 

 

 

 

 

 


関わっていく
2015年5月23日

なんだかんだ言っても、生きているし、生きていくんだし。そんなことを思います。「この私」は存在してないけど、働きとしての顕れはあるんだということ。(それもないと言えばないということになるけど)

 

「私もあなたも存在していない」というのは「それ」として在るところから言えばそりゃそうなんだけど。そりゃそうなんだけど、「何もありません」で終わってしまったら、身も蓋もないというか、取りつく島もない、という話です。

 

何もないところから、また「有る」世界を生きていく。誰もいないところからまた「あなた」と関わっていく。

 

結局生きることは「関わり」なんだということ、その当たり前に戻ってきて、そこからまた始まっていく。また還ってくるということを大切にしたいと、「この私」は思うわけです。

 

わたしもあなたもいなくて、何もなくて、ただ「それ」だけが在る。そりゃそうなんだけど、だからと言って、そこへ行ったきりになろうとする必要もなくて。

 

たとえば大乗仏教は「菩薩」としての在り方を重視するけど、他との関わりの中で、菩薩は菩薩足り得るんですよね。どこまでも「縁」を見ている。組み込まれている私。生かされつつ、生かしていること。手を差し伸べていくこと。

 

本来は誰しもただ「それ」として在る。如来=仏として在る。それはほんとうのこと。しかし同時に、私たちはいつだって菩薩じゃないかと。生きている限り、如来でありつつも菩薩。誰かと、何かと繋がって生きているんだから。

 

吉野弘さんは詩「生命は」の中で

 

 

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

 

 

と詠っているけど、ほんとそういうことだと思うんです。自覚の有無は関係なく、いつだって、誰もが誰かを導く菩薩であり続けているのがこの世界で。

 

その円の、循環の中で関わらせてもらっている、そこにある暖かさに目を向けていたいなと。

 

仏というのはただ大日如来だけが在る、しかし同時にお地蔵さまもお不動さまも観音さまも在るんですよね。その奥にいつも大元の働きを見つつ、個別の顕れを見ていく。

 

「この私」はいないけど、誰もが「わたし」として、仏として在る。どれもがわたしだっていうところで、別け隔てのない「慈悲」というのが腑に落ちる。

 

それはやはり暖かいし、それがいいなあと、「この私」は思います。

 

これが「わたしもあなたもいません、何も起きてないし、何もありません。」で終わってしまったら、あまりにも荒涼としていて、生の味わいに欠けるんじゃないかなって。

 

私というものはいないけれども、いないと同時にいるとも言えるんだってこと。この顕れはあるんだって。

 

色即是空で行ったきりじゃなくて、空即是色でまた顕れる。戻ってくるということ。ほんとうはどこに行ったわけでもないし帰ってくるわけでもないけど、以前とは違った見方で世界と関わっていく。そこに「それ」を、仏を見出せるかどうか、それだけの違いだけど、それはまた大きな違いでもある。

 

ないこととあることは、そもそも同時だってところから、また生き始めていく。

 

ただ「無い」の一言で終わらせる必要はない。どちらか片方だけってことではない。「生きている」というのは「まるごと」であって。そのまるごとから、どう関わっていくかということなんじゃないかな。

 

 

 

 

 


行為者はいない
2015年5月19日

禅とか悟りとかいまこことかワンネスとか非二元とかアドヴァイタとか、そういう宗教だの何だのが全部取っ払われたところでよく言われる「行為者はいない」ということ。

 

事はただ起きているっていう。

 

まあそもそも「私」がいないんだからそれはそうなんだけど、そのことに改めて気づいたというか解かり直したというか更新された感じがありました。

 

昨日、道を歩いていてツバメの巣が目にとまったのですが、そのとき不意に「あ、誰も何もやってないわ」という状態になって。

 

 

 

ツバメは誰に教わったわけでもないのに、巣を作っている。

 

自我を持たないツバメが巣を作っている?

 

いやこれはツバメが巣を作っているように見えているだけで、そうじゃない。

 

ツバメは巣を作っていない。

 

「ツバメの巣作り」ということが起きているだけだ。

 

何によって?ただ在る「それ」によって。

 

それが起こしている、というか実際は起きてもいなくて、ただ「そうである」としか言えないのだ。

 

ただ在る「それ」、そのいのち、仏さまが、そういうことに「元々」しているから、「そうなっている」というだけだった。

 

私たち人間は通常自我にまみれているから、自分がやっていると思っている。

 

誰かがやっている、起こしていると思っている。でもそうじゃなくて。

 

まったく自動に、すべてが、既に「そうなって在る」ということ。何一つ違わない。

 

ツバメの巣が作られていることと、今私がこうやって文章を書いていることと、太陽が昇ることと、何一つ違わない。

 

どこにも行為者はいなくて、ただ、「そうなっている」んだ。仏さまの意思によってそれは決まっている。

 

意思とか言うとあれだけど。

 

この呼吸も、血が流れるのも消化するのも、私がやってるわけじゃない。

 

それは分かりやすい話だと思う。
だけどそれらと、歩く、食べる、書く、話をする、何が違うというのだろう。

 

私が意思によってやっている(と思っている)ことも含めて、すべては自動に起こっているのだ。

 

敢えて行為者と言うなら、やっているのは仏さまであって、それはこれから起こることも含めて、既に起こっていることなのだと。

 

これから起こることと、既に起こったこと、これはまったく「同時」。

 

これが「即」で。

 

まるごと、宇宙はまるごと生きている。

 

そこに個別の意思はない。いや有りながら無いのだ。

 

 

 

という、改めて言葉にしてみたら相当意味不明でやばい感じになりましたが、どうだろう。

 

うーむ。

 

わかる人にはわかる文だとは思うんだけども。

 

「別れていない」ということが「ほんとう」なわけだけど、そもそも言葉自体が対象を前提にしてるんだからなかなかじれったいですね。

 

 

 

ところでさっきの「まったく同時」である「即」とか「有りながら無い」ということについては遥子さんがすごくいいこと言ってますので、気になる方はぜひどうぞ。

 

すべては脚本であり、同時に自由(「即」についての一考察)

 

ちょっと前から夫婦間で「やっぱ即だよね」と話題になっています。

 

この「即」において「自然法爾」とか「返本還源」とか言われるところの、世界のあるがまま、その完璧さが顕れてくるんだなあと。

 

 

 

話を戻します。とにかくですね、事は起こりつつ既に起きていて、起きてもいなくて、やはり誰も何もしていませんでした。

 

まとめると、世界は美しいということです。

 

 

 

 

 


どれもこれも
2015年5月17日

「Gateway to ほんとうのこと」としての仏像のこと。

 

の記事を読んで。

ほんと、どれもこれもがそうなんです。

 

 

 

 

 

峰の色 谷の響きも 皆ながら 吾が釈迦牟尼の 声と姿と(道元)

 

 

 

お遍路をしているときなんかにもよく感じるけど、仏さまは仏像のような「かたち」を持って、お寺という限定された場所にいるわけではない、というかあるわけではないなあと。といって、ここから離れたどこか遠くの仏の世界にあるわけでもない。じゃあどこにあるのか。

 

この私を取り巻く風景、人、物、現象、それらすべては、それとしての役割を担って顕れている。そしてそのそれぞれの顕れは、それぞれをそれぞれとして在らしめている大元の働きがあるからこそ、その顕れとして顕れうるんだってこと。ただその大元にあるそれが様々に姿を変えて、現れたり消えたりしている。大元のそれ自体は見えないし聞こえないし匂いもしないし触れもしない、「かたち」ではないけど、ただ、いまここに在る。そのエネルギー。いのち。この「まるごと」のいのちが、「仏さま」なんだということ。この名前を持った自分を顕している働きそのもの、それがそのまま仏さま。この仏さまが、個別にあると思っているこれとかあれを通して生きているという、気づいてみたらシンプルこの上ない話。だってこのまるごとのいのち、宇宙にはただそれしかないんだから。それ以外にはなにもない。個別のあれこれは、あたかも個別に存在しているように見えて、実際は何一つ単独では存在していない。限定された私もあなたも単独では存在し得ない。個別のあれこれは、すべてのあれこれをまとめて貫くいのちの揺らぎの上で、その揺らぎ合いの中で成り立っているというか。この部分が揺らいだら隣が揺らいで、そしたらまたその隣が揺らいでという風に、そうやってそれぞれがそれぞれを生かして生かされて、それでいてひとつのいのちだということ。だからどこか小さな一部分だけを見て、それが実体を持って「有る」なんて言えない。

 

で、そのまるごとのいのちとしてただ在る仏さまを、浄土教では阿弥陀如来といったり、密教では大日如来といったりする。「いのち」はひとつだけども、そこから出る働きは無数にあるわけで、そう捉えると、曼荼羅に見る大日如来と個別の仏さまの関係もすっと腑に落ちるというか。

 

「光には「照らす」「育てる」「温める」とかいろんな働きがあるけど、それぞれの働きはそれぞれとしてありながら同じ光でしかない」

 

というような言い方をしたのは柳宗悦だったか。火が灯るのも風が吹くのも、水が流れるのも花が咲くのも枯れるのも、大日如来の個別の顕れにすぎない。この名前をつけられた私を含めたすべての顕れが、無数の仏さまであって、と同時に、仏さまは大日如来しかいないんだということ。そのまるごとのいのちとしての仏さまの呼び方は自由だけども。仏とか阿弥陀仏とか大日如来とか真我とか空とか、いろいろあるけど言葉はそれ自体ではないから、なんだっていいよね。単に「それ」でもいいのだし。

 

とにかく、なんにもないところで、なにもかもをひっくるめた「それ」が現れるってこと。いや現れもしないけど。ただ在るんだけど。そして大切なことは、それしかないということは、その「それ」としての仏さまは、この名前をつけられた私とまったく離れていないし、別の存在ではないということ。だってそれしかないんだから。つまるところ仏さまというのは「わたし」だったという。

 

この名前をつけられた私を越えて、生まれることも滅することもなく、時間を越えてただ在る「それ」、仏さまとか、その他いろんな言葉でもって大昔から語られてきたそれが、ほんとうの「わたし」。

 

まるごとのいのちとしての阿弥陀如来としてのほんとうのわたし」の中にこの限定された私の一切を放り込んで、もうただ降参してお任せして、それとして在る。ほんとうのわたしに還る、そこに揺るぎない安心がある。「南無阿弥陀仏」というのはそういうことなのだと思う。往生は死後という時間の中にはない。ただ、いま、ここにあるのだと。「ほんとうのわたしに還る」というのは密教で言えば「即身成仏」になるよね。光明寺の松本さんは南無阿弥陀仏について

 

「ほんとうの自分の名前を呼ぶこと、ほんとうの自分の名前を思い出すこと」

 

という風に捉えていると仰っていたけれども、ほんとそうですね。

 

そうなったらもう、なんら限定されてないわけで、どれもこれもが、それとしてそうあるがままに、仏さまとしての働きを発揮しているだけ。「わたし」というものをあまりにも限定的にとらえてしまうから、そういったことに気付けないだけで、忘れているだけで、ただちょっとこの限定された名前をつけられた私を手放してみれば、ああこれでいいのだと、そういうことになってくる。「それ」であったことを思い出す。「既に」それであったことを。

 

まあこの限定された私としての私(ややこしいけど)などは、そんなことをすぐに忘れてあたふたすることしょっちゅうだけども、どんな状態であれ、いっときも、仏さまと離ればなれになることなど「そもそも」有り得ないということを思い起こせば、南無阿弥陀仏となるばかりというか、そんな気持ちです。

 

「御仏と二人連れのこの人生が 丁度良くないはずが無い」

 

という良寛さんの歌、まさにまさに。

 

だいぶ話がとっ散らかりましたが、とりあえず、仏像を含めた限定された何か、そういったものが自分の外側にある、ということではないんだけれども、「あ、ぜんぶ自分だったわ」というか「限定された私なんてそもそもいなかった」と思いだすきっかけとして、仏像はありがたいものですよね。

 

ただ、「優しさに包まれたならすべてのことはメッセージ」というかそんな感じで、仏さまはそこらじゅうに在りつつもどこにも行かずここに在るので、そうなると、当然必須のものというわけでもなくなってくる。なにしろ自分がそれだから。像はその形を持ったものそれ単体で仏さまではないし、そこに宿った何かを指してそれを仏さまというわけでもない。しかし同時にまた像も仏さまなんだよね。そしてそこで言うなら像に供える線香も蝋燭も仏さまだし、この限定された私もまた仏さまに他ならない。

 

以前高野山に行ったとき、阿字観を指導してくれた若いお坊さんが

 

「本当はここに敷かれたカーペットだって仏さまなんですよ。でも普段はあまりこういうことは言いません(笑)」

 

と語ってくれたことを思い出すけど、彼は元気だろうか。

 

まあ仏像に限らず、自分にとってなくてはならない物でなくなったからこそ、本当のありがたさが深く理解されるってのはままあることで。そのありがたさはじんわりと、自分の内側に沁みわたって、世界に新たな彩りを与えてくれるんじゃないかなあ。いや新たなというか、本来の彩りが取り戻されるというほうが近いか。そしてそのありがたさは、そこここにあるということ。だってそれは「なくてもある」ものなんだからね。

 

 

 

 

 


temple第二回に参加してきました
2015年3月13日

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先日、神谷町の光明寺で行われたワークショップ「temple」第二回に参加してきました。「『ほんとう』に触れて”自由”を生きよう」、というのがtempleのテーマです。自分の心の内にあって普段なかなか話す機会のない「ほんとうのこと」について、対話の中で見出していく、というか思い出していくような、そういった感覚かもしれません。

 

まずは光明寺の僧侶である松本紹圭さんに讃仏偈というお経を読んでいただき、続いて主宰の小出さんから「ほんとうのこと」について解説がありました。

 

「ほんとうのこと」ってそもそも何?というお話です。それはあらゆるものが移り変わっていく世の中にあって、確かなもの、変わっていかないもの、揺るがないものであるということ。わたしたちは普段、自分の外側にある様々なものを「確かなもの」として捉えてしまいがちですが、それらはすべて、変わってしまったり無くなってしまったり、実は不確かなものです。templeではそういった外側に依らないところにある「確かななにか」を探っていこう、というわけなんですね。

 

その後は参加者各自が持ち寄った「ほんとうのことば」の発表に移ります。この「ほんとうのことば」というのは、参加者が「ほんとう」を指し示していると感じた、先人たちの残した言葉です。今回は私も三名の発表者の一人としてお話をさせていただきました。発表と言っても、参加者が輪になり向かい合って座っている中、発表者も座ったまま話をするので固っ苦しい雰囲気ではありません。私自身、わりとすんなりと、思っていたことを言葉にできたような気がします。

 

そして最後はtempleの要である対話の時間です。こちらは4人ずつのグループに分かれて行われます。「ほんとうのこと」について思い思いに語りあう…どんな展開になるのかどきどきしながらも、気が付けばあっという間の一時間。それぞれ初対面ではありましたが、「ほんとうのこと」について話したい、聞きたいという思いから集まった者同士、自然と会話も弾みます。まだまだ話し足りないくらいでした。

 

「ほんとうのこと」、これを言葉でずばり表すのは難しいのかもしれません。しかしこれを掴むというか解かるというか、感じることは思っているほど難しくないような気もします。というのも、わたしたちの内側にある「ほんとうのこと」は、新たに発見するようなものではなく、誰もが既に持っていて、しかも誰にとっても同じものだと思うからです。ほんとうは既にここにあるのに、ただ忘れてしまっているだけというか。それを「ああこれだったこれだった」と思い出すようなことなのではないでしょうか。真の意味での「共有」というのもそういったところで可能なのではないかと思ったりもするのです。変わることのない「ほんとうのこと」は宗教や宗派、性別や職業や国籍その他もろもろに左右されない、それら名前あるものををすべて取っ払ったところに残るもの。それを指し示す言い方は違っても、それであるとしか言えないもの。だからこそそれは誰にとってもほんとう足り得るし、そういったところではこの会場も、特定のお寺ではなく、ただのtempleになり得るのだと思います。

 

静かな音楽が流れるお寺の本堂で、リラックスしながら「ほんとう」に触れてみる。気になる方はぜひ参加されてみてはいかがでしょうか。

 

 

 

 

 


物語はない
2015年2月5日

「前世」や「転生」なんてフィクションです。

 

の記事を読んで。

 

 

 

 

 

物語はない。

 

物語は分離の中で起こることだけど、「それ」しかないところにおいては、

 

物語られるものがない。

 

旅立つわたしも、仲間になる誰かも、打ち倒す誰かも、手に入れる何かも、

 

たどり着くどこかも、なんにもない。

 

だから物語ははじまらない。

 

名前をつけられた一切のあれこれがないのに、生も死もないのに、

 

生まれ変わる個別の何があるというのだろう。

 

誰も彼もが、何もかもが、過去と未来を含んだ「今」「此処」に

 

「それ」として在って、どこにもいかない。

 

わたしは誰でもなかったし、誰でもあった。

 

わたしもあなたも、いつかのあの人だったし、

 

まだ見ぬどこかのあの人だった。

 

みんなが同時にみんなということ。

 

そのひとつらなりのいのちの、消えては現れるそれぞれの形、

 

その瞬きを、「転生」と言うことはできるかもしれない。

 

だけどそれは、過去から未来へ続くという直線上のものではない。

 

このわたしが、どこまでも続いて、どこかへたどり着くようなことではない。

 

この何も「ない」ところでは、ないゆえに、何もかもがそれとして在る。

 

既にそれであるわたしは、そもそもどこから来たわけでもなく、

 

どこへ行くわけでもない。

 

わたしは続いていかないのだ。

 

 

 

 

 


自分ということ
2014年11月17日

私は仏教徒ではありません。それでも私は仏教徒です。

 

の記事を読んで。

 

 

 

外側から与えられる価値というのはいろいろあるけど、それってまったく不確かなもので、そこを拠り所にしていくような気持ちにはどうしてもならなかった。

 

一時的なものを得たり失ったりしながら、生きて死んでいく。それで自分が「生きている」という事実について納得ができるのかと、ずっともやもやを抱えてきた。そんなはずはない。何がなんだかわからないまま生きていきたくはない。確かなところを生きていきたいと思っていた。

 

自分ってなんだろう。考えてみれば、結局、問いというのはそれだった。自分の不確かさ。自分というものがなんなのか、まったくわからずに生きてきたのだ。

 

それからいろいろあって、仏教に興味を持つようになった。それは仏教が、外側からではなく、自分の内側から浮かび上がってあがってくる価値というか、いのちそのものの輝きというか、そういう本当のところに気づかせてくれるような予感がしたからだ。確かなところからまた新たに生き始めることができる、そういったことが仏教にはあると思ったのだ。

 

で、またそれからいろいろあって、求めていた「確かなところ」が、どこにあるのか見えてきた。自分というものがわかってきた。
そして今思うのは、この私が抱えていた問いも、その問いに対する答えも、私だけのものではないということ。

 

その「確かなところ」、「ほんとうのこと」は、だれにとっても100%、自分のことでしかありえないということだ。それはどこか遠いところ、自分の外側から受け取るようなありがたいお話でもないし、決して絵空事でもない。ただ、いまここにある自分のこと、それについてのみを言っているんだということ。外側のことでなく、自分の内側のこと。いや、外側も内側になるようなこと。そしてこの自分というのは、私であってあなたなのだ。だから誰にとっても、それを知ることは、確かなところを生きていくということに直接につながってくる。

 

それはだれにとってもそれであるので、宗派によって変わってくるものでもないし、仏教という枠組みの中だけのものでもない。彼女が述べているように、仏教ありきのことではない。まず何よりもさきだって、ほんとうのことがすでにあって、それについて仏教は、仏教なりの言い方で指し示している。キリスト教の中にもイスラム教の中にも他の宗教の中にも、「それ」を指す言葉は無数にあるのだろう。

 

「それ」というのは彼女が言う「自分」のこと。

 

自分と言っても、この名前を持った、限定された個別の人間としての自分のことではなくて。普段自分だと思っていた自分というのは、突き詰めてみれば自分ではなかったということ。自分は存在していなかったのだ。あるということが疑い得ないほどにあると思っていたものがない。なにもなかった。

 

だけど、何もかもがなくなりきったとき、何もないわけじゃないことに気づく。何もないところで、立ち現れてくるものが確かにあるのだ。それが「確かなところ」としての「自分」だった。一つという言葉も越えて、ただただ在るもの。何もないからこそ、何もかもがそれとして在るのだ。

 

それはもはや仏教も宗教も越えて、何によっても隔てられることのない、ただ存在としてのほんとうのこと。だれもがおなじいのちを生きている。私もまたあなただったのだ。それは変わることがない。揺らぐことがない。生まれもしないし死にもしない。始まることも終わることもない。

 

お釈迦さまが「自灯明」という言葉で自らを拠り所とするよう説かれたのは、この私を越えた確かなところとしての自分を指してのことなのだろう。彼女が言う「自分教徒」もまったく同じ意味なのだろうし、私もそこにのみ、本来の生があると思っている。

 

そのおなじいのちの輝きを思うだけで、なんとも言えず、愛しさがこみあげてくる。だれもがその自分とともにあることを自覚して、行き交う世界をただ願う。だれもがあなたの中に自分を見ている。宇宙をまわしている自分を見ている。

 

どこにも行かない。誰もがいま、ここで、世界と、あなたと出会っていく。それだけのことなのではないか。それ以上のことがあるのだろうか。わたしはいつもあなたといま、出会いたいと思う。

 

いつもそんな思いでいられるわけじゃないけど、というかだいたいいられてないけど、彼女の言葉によってまた、自分が呼び起されてくるようで、ありがたいので、ごちゃごちゃ書いてみた。しょっちゅう忘れてるけど、忘れても忘れても、また思い出していきたいと思う。

 

あーもう、だれもかれもが幸せでありますように。

 

 

 

 

 


曼荼羅のこと
2014年6月27日

曼荼羅といってもいろいろあるけど、真言宗のたいていのお寺で

 

本堂の左右壁面にかけてある「両界曼荼羅」について。

 

 

一方が「胎蔵界曼荼羅」、もう一方が「金剛界曼荼羅」。

 

この二つの曼荼羅を合わせて両界曼荼羅なんだけど、

 

その意味するところについてはいろいろな説明を読んでみたものの、

 

どれもわかるようなわからないような。あまりしっくりこなかった。

 

大日如来を中心に諸仏を配置して、全体で仏の世界観、宇宙を表している、

 

っていうのはまあそうなんだろうなって感じなんだけど、

 

胎蔵界と金剛界の違いとか、いまいちつかめなかった。

 
それが数年前のこと。

 

都内の仏教イベントで、会場にかけられていた

 

両界曼荼羅をなんとなく見たとき「はっ」とした。

 

これっていのちの「顕現」とその「働き」なんじゃないかと。

 

人間でたとえるとわかりやすいんだけど、

 

一人の人間を宇宙とすると、人間には目があって鼻があって

 

口があって耳があって、というふうにいろいろある。

 

これは宇宙でいえばいろんな星があるのとおんなじ。

 

宇宙を構成するパーツを一覧で表したもの、これが胎蔵界曼荼羅。

 

このパーツが、それぞれの仏。

 

で、宇宙には、ただいろんなものが並んでるだけかといったら

 

もちろんそうではなくて、それぞれに「働き」がある。

 

人間で言えば見る、嗅ぐ、食べる、聴く、というように。

 

宇宙には星の自転があって公転があって、

 

恒星は輝いていたり、爆発したりする。

 

この宇宙の働きを表したもの、これが金剛界曼荼羅だと。

 

なぜ働きだと感じたのかというと、

 

金剛界曼荼羅に描かれた仏が動いているように見えたから。

 

中心の仏から、また違う仏がぼんぼんぼんぼん、と広がっていくような。

 

それぞれの仏が、それぞれの働きを持って、宇宙を構成している。

 

そういえば胎蔵界曼荼羅は「静」、金剛界曼荼羅は「動」であるという

 

説明もあったな、と思った。

 

 

爪が胎蔵界で爪が伸びるのが金剛界、

 

血管が胎蔵界で血が流れるのが金剛界、

 

とかそういうことなんだと。

 

 

そして、このいのちが顕現したそれぞれのパーツ、それぞれの働きは、

 

当然それだけで独立してあるわけではない。

 

目だけ、口だけ、ではなく、それぞれがそれぞれでありながら

 

全部ひっくるめてひとりの人間であって、宇宙なわけで。

 

全部ひっくるめて大日如来。

 

ひとつのいのち。

 

胎蔵界も金剛界も、宇宙を違う側面から表しただけで、

 

どちらもが重なって宇宙が成り立ってる。

 

わたしの体があって、息を吸って血がめぐって食べて出して

 

泣いて笑ってわたしが成り立っている。

 

 

宇宙ってそういうことなんだろう。

 

ただひとつのいのちがあるだけ。

 

それしかない。

 

わたしがわたしのいのちを持って生きているわけじゃない。

 

いのちがわたしを通して生きている。

 

 

 

 

そんなことを以前恋人に話したところ、大いに納得してくれた様子だった。

 

そしてまた最近、彼女は

 

「胎蔵界の中に金剛界があって、金剛界の中に胎蔵界があるんだよね」

 

と言った。

 

そうだな、と思った。

 

宇宙があって、

 

宇宙には星々があって(胎蔵界)、

 

星が回って輝いて(金剛界)、

 

その中に海や山があって(胎蔵界)、

 

雨が降って風が吹いて、波が立って噴火して(金剛界)、

 

魚がいて花があって人がいて(胎蔵界)、

 

泳いだり咲いたり枯れたり、生まれたり死んだりする(金剛界)。

 

 

そして今、たまたまここで、ふたりでこんなことを話し合っている。

 

 

それはどこまでも重なり合って働き合って、

 

ばらばらのようで統合されている。

 

マクロの中にミクロを見ることもできるし、ミクロの中にマクロを見ることもできる。

 

どちらでもあるし、どちらでもない。

 

すべては融通し合っている。

 

 

「遍く照らす」

 

大日如来の別名は遍照如来なのだとか。

 

 

その宇宙の、なにひとつ持て余すことのない、隅々まで行き届いた配慮に、

 

ふいにくつろいだ気持ちになったりした。