消しゴムはんこの仏さま
2017年8月9日

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このたび、これまで彫ってきた仏はんこが書籍化されることになりました。タイトルは「消しゴムはんこの仏さま」で、わりとそのままな感じです。(副題で「かわいいやさしい」と付けていただきましたので、正式には「かわいいやさしい 消しゴムはんこの仏さま」となります。)

 

掲載内容は72の仏さまの印影とそれぞれの仏さまの解説、仏さまにまつわるコラムやはんこの彫り方などで、タイトル通り、仏さまの印影がメインではあるのですが、思った以上に文章部分も多くなっています。ここまで好き勝手に書かせていただいて(え、こんな感じでOKなの?というくらい)、担当編集者さん、出版社さんには本当に感謝しています。

 

第1章「仏さまを思う」や章間の5つのコラムでは「仏さまってそもそもなんなの?」という観点からあれこれ書かせていただきました。

 

「仏」って幅広い意味があってなかなか捉えづらい言葉だと思います。元々の意味、狭義でいえばいわゆる「仏陀=如来」のことで、「真実に目覚めたもの」という意味合いでお釈迦さまの尊称です。しかし日本においては「仏=如来」に準ずる存在として多くの菩薩や明王、天部も伝えられ、これらの尊格もひっくるめてざっくりと「仏さま」と呼ばれています。さらに日本では亡くなられた方のことも「仏さま」と呼ぶのがわりと一般的だったり。この時点で、自分とはちょっとかけ離れた存在というか、少なくとも自分の外側に存在する超越的ななにか、というような感じになっていますよね。

 

一方で、「仏」は自分の内側にあるものと捉えることもあります。ただこれも、「この私個人の心の内」のこととして言っている場合とそうでない場合があります。そうでない場合は、「そもそも『自分』というのは『この私個人』という限定されたものなの?」という話にもなってきたりして、またなんだかよくわからない感じもしますが、いってることはシンプルで、つまりは「ぜんぶ仏」だということです。

 

自分の外側というものがそもそも無くて、最初から仏しかない、すでに仏なんだよ、という。外側にある(ように思える)あれもこれも仏だし、この限定された(ように思える)私個人も仏で、もう世界は仏だらけ、仏100パーセント。世界は仏でできていて、そこから外れるものがない。仏でないものがない。しかしその無数の仏は、無数でありながら同じひとつ。分かれていないひとつ。

 

ぶっ飛んだ話にきこえますが、実は今回の新刊「消しゴムはんこの仏さま」ではこの「仏100パーセント」という仏さま観からお話ししています。あれもこれも仏というのは、もうシンプルでいいですよね。否定されるものがないし。おれもおまえも仏、以上!で終わり。まあなかなかそう感じられないのも当然で、頭で考えると「そんなわけあるかい」となって、すぐに否定的な心、批判的な心が出てきたりもするんですけど。ほんと私もそうなんですけど。

 

しかしそれでも、良いと思えること、悪いと思えること、そのどちらもがほんとうは大きなはたらきの中で起こっているよね、そのはたらきからは外れようがないよね、という話なんですよね。人はたいてい、なんでもかんでも二つに分けて理解しようとするわけですが、その二つがどちらも分かれていなくて、最初から、すでに、その大きなはたらきとしての「仏」の中にあるよねという。生と死とかも。

 

そう捉えてみると、仏さまの話ってそれはもう誰にとっても、もれなく「自分ごと」だし、仏さまは決して遠く離れた存在でもない。いついかなるときも離れていない、というか離れようがないので。どこか遠くに求めていたはずのものが、いま既にここであらわれている。これってちょっと安心じゃないですか。

 

そんな感じで仏さまについて述べているわけですが、これ、全然「仏像」の話はしてないんですよね。本来、仏さまに形はないわけですが、その仏さまのはたらきを形にしないと何がなんだかわからないので、一応擬人化して気づきやすくしましたよ、というのが仏像です。じゃあその「像」に先立つそもそもの「仏」ってなんなの?という話で。形を通して形でないものを見てみるのもいいよね、と。形はとっかかりというか。

 

というわけで、今回の本は仏像本かと言われると「うーん……?」という感じです。第2章「色々な仏さま」の仏さまの印影と解説でも「像」についてはあまり述べていませんしね。それでいて消しゴムはんこの本かと言われるとこれも「いや……?」となるので(はんこの彫り方も載せていますが、基本的なところにとどめています)、なんだか珍しい内容かもしれませんが、なんにせよ、仏さまとの新しい出会いのきっかけになってもらえたら幸いです。

 

 

 

どうぞよろしくお願いいたします。

 

 

 

 

 


あたらしいひと
2016年11月6日

人はたいてい、何に対しても思いを乗せて見てしまって、さらにはその思いを乗せたまま降ろそうとしない。

自分にとって良いことは良いこと、悪いことは悪いこととして固定化してしまう。

だけどそれらは縁によって一時的にそのような形で表れただけ。とどまるようなことじゃない。いろいろしんどくなるのは、流れ去るものを流れていないかのように見るからで、思いをとどめてしまうからだ。

 

「すべては縁の中にある」という気づきを生きていると、流れ去ることをあまり追いかけなくなる。


移り変わらないものとして世界を見れば、なんでもかんでも古くなってしまうようだけど、移り変わってゆくこの世界はあたらしいまま。いま、この関係は、いま、ここで、初めて結ばれるもので。

 

そうやって、その都度、世界とあたらしく出会いなおしているような妻と、今日もあたらしく出会える。文字通り有難いことだなあと思う。





なんでもなさ
2016年5月9日

川沿いに咲いている名前を知らない花を見て、不意になんともいえないなつかしさを憶えた。


こどもの頃の近所の風景と重なったから、ということだけではない気がした。


名前を知らない花が、なんら私の想いを乗せることなくただ咲いている。


いのちのあらわれというのは、このなんでもなさ、ただそれとしてそうあることだ。


なんでもなさがなつかしいのだ。


いつも私から見られるものごとは、なにかしら私の想いがくっついて、このなんでもなさが隠されてしまっているのだろう。


このなんでもなさは、取るに足らないということではない。

 

取るに足らないなんでもなさというのは、意味になっている。


私が想いを乗せてしまっている。


しかし本来のいのちのあらわれとしてのなんでもなさは、意味以前だ。


花の名前が知れないなら、花を見る私の名前もまた知れない。


花がなんでもないなら、私もまたなんでもない。


私が花を見ているということもない。

 

どちらかがどちらかをを見ているということもないのだから。


そういうそもそものいのちが、花を、私を生きている。


なんでもなさが訪れて、その事実が不意に思い出されたから、普段忘れてばかりの私はなつかしかったのかもしれない。


まあ、そうではないかもしれないけど。