順序は逆
2016年5月8日

「私」が前提になっているままで仏教をとらえようとすると、道徳とかヒューマニズム、「私の」心の話になってしまう。

どうしても「私」にとって都合のよいものにしようとしてしまうよね。

空の広がりから見たいのちというのを「長い歴史の中でつながっているいのち」とか言っても、どうだろう。空の広がりは歴史とかそういう「時間」を前提にしたものじゃない。かといって空間でもない。だから「広がり」ということでもないんだけど。

いのちは直線的に続いてるものではなくて、円環的なもの。はじまりもおわりもなく中心もない。

今この体を持って生きている私のいのちと、体は既にない、いつかの誰かのいのちが、時間の流れにおいて「つながってる」なんてもんじゃなくて、まったく「おなじ」いのちとして、何も変わることなくいま、ここにある。

つながる二つがそもそもない。

だけど「私」が前提になっていると、時間とか空間とか、そのほかなんでも対象化して、その対象が私にとってどうなのか、って話にしてしまう。

それは人の視点であって、仏の視点じゃない。

仏教は枠の外に出るものだけど、そもそも「私」が枠であって。

だから「私」が見ても見えないし、「私」が聴いても聴こえない。「私」が掴もうとしても掴めない。だけど「仏が私を」掴むということがどういうわけか起こる不思議。

順序はいつだって逆。

とか言いつつ、こんな話をすぐに「私」が聴こうとしてしまう。だけどそれさえも仏の掌の上で起こっているんだよね。

 

 

 

 

 


ないことはあること
2016年3月19日

「まぼろし」が消えると、“ほんとう”が残る

 

 

この「私」が確かな実体を持って「ある」と疑いようもない状態では、当然、時間も空間も疑いようがないから、とにかく、なんでも順序立てて考えてしまう。

 

あれがこうなったから、こうなって、それによってまたこうなった、とか。これがもっとこうなれば、きっとこうなるはずだ、とか。

 

だけども、「この私」という実体、参照点というか、それがまったくない最もシンプルな事実からすると、はるか彼方であるはずの未観測の星々も、ただ「ここ」にあって、百数十億年前だかに起こったはずのビッグバンも、「いま」起こっている。

 

なにをどうしたから、ということはなく、すでにそのようになっている。

 

なにかをできるような「私」がない。

 

時間も空間もなく、誰もいない、なにもないここで、すでに成就されている。この成就が南無阿弥陀仏なのだろう。

 

なにもなくて、すべてある。この不可思議。

 

飽きようのないこれ。

 

 

 


縁とか
2015年10月21日

先月、夫婦で何度目かの四国遍路に行ってきた。歩いたのは24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)がある室戸岬から、高知市長浜の33番札所雪蹊寺(せっけいじ)まで、およそ120Kmほど。

 

今回も、出会う風景や人とか、妻との会話とか、疲れ切って眠るとかいろいろ良かったんだけど、毎回歩いていて面白いのは「縁」というものが強く意識されることかなと思う。

 

28番札所大日寺近くの宿「遊庵」で、ご主人の奥様からこんなお話を伺った。

 

奥様は愛媛の札所のお寺近くに生まれたものの、お遍路についてはつい最近まで特に興味もなく、遍路宿をやることになるなんて考えてもいなかったそうだ。それがどういうわけか、今では実際に歩き遍路をするまでになったのだという。

 

「縁という言葉なんて、『結婚の縁』とか、そういうことくらいのものだと思っていて、これまで全然意識していなかったの。だけど、気がつけばこういうことになっていて。」

 

偶然に偶然が重なって、たまたま、今この場所で、遍路宿をやっているだけなんだと奥様は仰っていた。続けて、

 

「まったく自分で思い描いた通りのことではないんだけど、今が一番幸せかもしれない。そう思うと、これまでの色々なこと、ああこれが縁なのかなって。今は自分でこうしてやろう、っていうのがないのよ。だから楽ね。なんでもいいの。」と。

 

素敵だなあ、と思った。

 

自分でこうしようああしよう、というのがないのは、無責任という意味で受け取られることもありそうだけども、もちろんそういうことではなくて。

 

「私がしている」というところから離れてみると、すべてを成り立たせている無数の縁が見えてくるし、そもそも縁でないものなんてないことにも気づく。

 

この私が、「あの縁」と「この縁」によって成り立っている、という話ではなくて、ただ数えることのできない縁の中に組み込まれて、表れているという、その事実が迫ってくるというか。

 

そしていま、このようにある、「そうなっている」ということそれ自体には、「この私」は関わりながらも関わっていないというか。途切れ目の無い縁の中で、独立したこの私というものはそもそも無いんだと。

 

この私がやっているように見えること、でもそれは私がやっているようで、ほんとうはなにもやっていない。やっていることなど何もなくて、ただ起こっているというのか、流れているというのか。

 

お遍路というのは、そういった「縁」に気づきやすいのかなと思う。「それをそうさせているはたらき」。それは仏とも呼べるもので。

 

歩いていると、仏はお寺のお堂にいる(ある)ものではないことが明らかになってくる。それはどこかに独立して、ポンと存在しているわけではなくて、いつだって、いまこの私と離れていない。そういうことが、すんなりと思い出されるような。「ああ、そうだったな」と。

 

曼荼羅に見るような、存在するすべてへの肯定、そこここに仏を見出していくようなこと。とっかかりはいたるところにあって。風がふくとか、鳥が飛んでるとか、足が痛いとか、なんでも、そのはたらきをとっかかりにして、そこからいつだって、「そもそも仏でないものはない」というところへ目を向けることはできる。

 

そして目に見えるもの、見えないもの、それぞれの表れ、そのはたらきを、肯定して肯定して肯定しきったところに、ただある、大元のはたらきが表れてくるような気がする。

 

この私を含んでいながら、この私ではない、それ以外ないところの大元のはたらき、それを大日如来と呼ぶのだろう。

 

ともかく、その既にあった縁を見出して、あれもこれも抱き含めているそのはたらきを感じて、奥様は「なんでもよい」と仰ったのではないかと思う。

 

ただ任せること。はからいのなさ。その縁の、つながりの中でただ生きてみれば、それは「なんでもよい」のだ。どこまで行っても、どこにあってもそれは仏の掌の上だっていう。

 

歩いているとその全体性というようなものが鮮明になる感覚がある。自然とそこを感じるお遍路さんも多いんじゃないかなあ。まあなにも、そういった感覚はお遍路中に限ったようなことでもないだろうけど。決しておおげさなことではないんだしね。

 

とにかく、全体性からこの私を生きていく、そこに尽きるというか、そこを自覚していたいなあと。いやしょっちゅう忘れてるけど、できるだけ、できるだけ。