なんでもなさ
2016年5月9日

川沿いに咲いている名前を知らない花を見て、不意になんともいえないなつかしさを憶えた。


こどもの頃の近所の風景と重なったから、ということだけではない気がした。


名前を知らない花が、なんら私の想いを乗せることなくただ咲いている。


いのちのあらわれというのは、このなんでもなさ、ただそれとしてそうあることだ。


なんでもなさがなつかしいのだ。


いつも私から見られるものごとは、なにかしら私の想いがくっついて、このなんでもなさが隠されてしまっているのだろう。


このなんでもなさは、取るに足らないということではない。

 

取るに足らないなんでもなさというのは、意味になっている。


私が想いを乗せてしまっている。


しかし本来のいのちのあらわれとしてのなんでもなさは、意味以前だ。


花の名前が知れないなら、花を見る私の名前もまた知れない。


花がなんでもないなら、私もまたなんでもない。


私が花を見ているということもない。

 

どちらかがどちらかをを見ているということもないのだから。


そういうそもそものいのちが、花を、私を生きている。


なんでもなさが訪れて、その事実が不意に思い出されたから、普段忘れてばかりの私はなつかしかったのかもしれない。


まあ、そうではないかもしれないけど。

 

 

 

 


順序は逆
2016年5月8日

「私」が前提になっているままで仏教をとらえようとすると、道徳とかヒューマニズム、「私の」心の話になってしまう。

どうしても「私」にとって都合のよいものにしようとしてしまうよね。

空の広がりから見たいのちというのを「長い歴史の中でつながっているいのち」とか言っても、どうだろう。空の広がりは歴史とかそういう「時間」を前提にしたものじゃない。かといって空間でもない。だから「広がり」ということでもないんだけど。

いのちは直線的に続いてるものではなくて、円環的なもの。はじまりもおわりもなく中心もない。

今この体を持って生きている私のいのちと、体は既にない、いつかの誰かのいのちが、時間の流れにおいて「つながってる」なんてもんじゃなくて、まったく「おなじ」いのちとして、何も変わることなくいま、ここにある。

つながる二つがそもそもない。

だけど「私」が前提になっていると、時間とか空間とか、そのほかなんでも対象化して、その対象が私にとってどうなのか、って話にしてしまう。

それは人の視点であって、仏の視点じゃない。

仏教は枠の外に出るものだけど、そもそも「私」が枠であって。

だから「私」が見ても見えないし、「私」が聴いても聴こえない。「私」が掴もうとしても掴めない。だけど「仏が私を」掴むということがどういうわけか起こる不思議。

順序はいつだって逆。

とか言いつつ、こんな話をすぐに「私」が聴こうとしてしまう。だけどそれさえも仏の掌の上で起こっているんだよね。

 

 

 

 

 


ないことはあること
2016年3月19日

「まぼろし」が消えると、“ほんとう”が残る

 

 

この「私」が確かな実体を持って「ある」と疑いようもない状態では、当然、時間も空間も疑いようがないから、とにかく、なんでも順序立てて考えてしまう。

 

あれがこうなったから、こうなって、それによってまたこうなった、とか。これがもっとこうなれば、きっとこうなるはずだ、とか。

 

だけども、「この私」という実体、参照点というか、それがまったくない最もシンプルな事実からすると、はるか彼方であるはずの未観測の星々も、ただ「ここ」にあって、百数十億年前だかに起こったはずのビッグバンも、「いま」起こっている。

 

なにをどうしたから、ということはなく、すでにそのようになっている。

 

なにかをできるような「私」がない。

 

時間も空間もなく、誰もいない、なにもないここで、すでに成就されている。この成就が南無阿弥陀仏なのだろう。

 

なにもなくて、すべてある。この不可思議。

 

飽きようのないこれ。