縁とか
2015年10月21日

先月、夫婦で何度目かの四国遍路に行ってきた。歩いたのは24番札所最御崎寺(ほつみさきじ)がある室戸岬から、高知市長浜の33番札所雪蹊寺(せっけいじ)まで、およそ120Kmほど。

 

今回も、出会う風景や人とか、妻との会話とか、疲れ切って眠るとかいろいろ良かったんだけど、毎回歩いていて面白いのは「縁」というものが強く意識されることかなと思う。

 

28番札所大日寺近くの宿「遊庵」で、ご主人の奥様からこんなお話を伺った。

 

奥様は愛媛の札所のお寺近くに生まれたものの、お遍路についてはつい最近まで特に興味もなく、遍路宿をやることになるなんて考えてもいなかったそうだ。それがどういうわけか、今では実際に歩き遍路をするまでになったのだという。

 

「縁という言葉なんて、『結婚の縁』とか、そういうことくらいのものだと思っていて、これまで全然意識していなかったの。だけど、気がつけばこういうことになっていて。」

 

偶然に偶然が重なって、たまたま、今この場所で、遍路宿をやっているだけなんだと奥様は仰っていた。続けて、

 

「まったく自分で思い描いた通りのことではないんだけど、今が一番幸せかもしれない。そう思うと、これまでの色々なこと、ああこれが縁なのかなって。今は自分でこうしてやろう、っていうのがないのよ。だから楽ね。なんでもいいの。」と。

 

素敵だなあ、と思った。

 

自分でこうしようああしよう、というのがないのは、無責任という意味で受け取られることもありそうだけども、もちろんそういうことではなくて。

 

「私がしている」というところから離れてみると、すべてを成り立たせている無数の縁が見えてくるし、そもそも縁でないものなんてないことにも気づく。

 

この私が、「あの縁」と「この縁」によって成り立っている、という話ではなくて、ただ数えることのできない縁の中に組み込まれて、表れているという、その事実が迫ってくるというか。

 

そしていま、このようにある、「そうなっている」ということそれ自体には、「この私」は関わりながらも関わっていないというか。途切れ目の無い縁の中で、独立したこの私というものはそもそも無いんだと。

 

この私がやっているように見えること、でもそれは私がやっているようで、ほんとうはなにもやっていない。やっていることなど何もなくて、ただ起こっているというのか、流れているというのか。

 

お遍路というのは、そういった「縁」に気づきやすいのかなと思う。「それをそうさせているはたらき」。それは仏とも呼べるもので。

 

歩いていると、仏はお寺のお堂にいる(ある)ものではないことが明らかになってくる。それはどこかに独立して、ポンと存在しているわけではなくて、いつだって、いまこの私と離れていない。そういうことが、すんなりと思い出されるような。「ああ、そうだったな」と。

 

曼荼羅に見るような、存在するすべてへの肯定、そこここに仏を見出していくようなこと。とっかかりはいたるところにあって。風がふくとか、鳥が飛んでるとか、足が痛いとか、なんでも、そのはたらきをとっかかりにして、そこからいつだって、「そもそも仏でないものはない」というところへ目を向けることはできる。

 

そして目に見えるもの、見えないもの、それぞれの表れ、そのはたらきを、肯定して肯定して肯定しきったところに、ただある、大元のはたらきが表れてくるような気がする。

 

この私を含んでいながら、この私ではない、それ以外ないところの大元のはたらき、それを大日如来と呼ぶのだろう。

 

ともかく、その既にあった縁を見出して、あれもこれも抱き含めているそのはたらきを感じて、奥様は「なんでもよい」と仰ったのではないかと思う。

 

ただ任せること。はからいのなさ。その縁の、つながりの中でただ生きてみれば、それは「なんでもよい」のだ。どこまで行っても、どこにあってもそれは仏の掌の上だっていう。

 

歩いているとその全体性というようなものが鮮明になる感覚がある。自然とそこを感じるお遍路さんも多いんじゃないかなあ。まあなにも、そういった感覚はお遍路中に限ったようなことでもないだろうけど。決しておおげさなことではないんだしね。

 

とにかく、全体性からこの私を生きていく、そこに尽きるというか、そこを自覚していたいなあと。いやしょっちゅう忘れてるけど、できるだけ、できるだけ。

 

 

 

 

 

 


沈黙と念仏と
2015年6月12日

言葉を重ねてみてもどうにもならないな、とも思う。ほんとうのほんとうとして在るなら、もうそれは沈黙にしかならない。

 

言えることなんて何もないなあ、と、あれこれ言いつつ思うわけです。

 

いやたしかに言葉はいろんなところへ導いてくれるし、素晴らしい言い方で、それを指し示す人はたくさんいるけど。

 

しかしそれでも、「ここ」においては言葉は消えてしまうし。

 

主体も客体もない、対象がないところでは、対象を前提にした言葉自体、そもそも成り立たない。誰が誰に言葉を発するのか、っていう。わたしもあなたもいないところで。

 

そういえば大学の卒論で書いたテーマが沈黙だったんだけど、つまるところはこういうことを言いたかったのだろうなと。今思えば。まあ当時は仏教的なこともほとんど知らなかったし、いろんな文脈に触れていなかったから、かなり漠然としていたけど。それでも、まったく無価値なものとしてスルーされがちな沈黙に、何かほんとうがあるんじゃないかと感じていたことは確かだった。しかし「沈黙についてあれこれ述べる」というのもなかなかの矛盾ぶりというかなんというか…。

 

ともかく、沈黙に答えがある、というか沈黙がそのまま答えなんだよね。

 

と、ここで念仏についてちょっと浮かんだので書くけど、南無阿弥陀仏というのは、一応言葉としての体を成してはいるけど、言ってみれば沈黙の言葉なのだと思う。

 

言葉じゃない言葉というか。もうそんな言い方ばかりになってるけども。

 

言葉が無くなったところでの言葉。言葉以前の言葉。だからそれはすべての答えになるんだね。

 

一方で南無阿弥陀仏をただ言葉として称えていたら、それはただの言葉でしかないということで。

 

念仏を何遍称えようが、それはただの言葉であって。

 

親鸞さんが、ただ一度でも念仏を称えられたらそれでいいという風に言われたのもこの辺のことじゃなかろうか。

 

念仏は数ではなく、積み重ねではなく。そこに時間はなく、因果とかもなく。だって沈黙において、一度でも念仏を称えられたら、既にそれは称えられていたことがわかるんだし。常に、称えられていたことが。

 

そこではもちろん、念仏する誰かはもはやいないから、念仏が念仏するという表現にならざるを得ないよね。宇宙は完全に自動運転だっていう。阿弥陀仏というのは名前以前の名前なわけだから。念仏するというのは、すべての名前の放棄でありながら、同時にすべての名前を呼ぶことなんじゃないか。そしてそれは「わたし」の名前なんだろう。

 

とにかく、言葉以前、意味以前、分断以前のそれ、その沈黙に立ち還ってみれば、そこにすべては成就していて。それ以上の何があるのかって、もう何もないじゃん。

 

何もないんだよ。

 

 

 

 

 

 


夢も現も
2015年6月11日

夢の中で何か大きな問題に直面していた。内容自体はよく憶えてないけど、楽しい夢とか怖い夢とか訳のわからない夢とか、そういう類ではなかった。はっきりした一枚絵のような夢ではなくて、そこに改善すべき状況があるという、なんというか立体的な夢。どうしたものかと焦りつつ、うぐぐ…となっているところで目が覚めたんだけど、その瞬間、「なにもないじゃん」、と脱力した。当たり前だけど。

 

だけどそれが妙に、今目が覚めた自分にそのまま当てはまった感じがして。

 

問題が起きている場所もなく、問題を起こしている人も、問題を起こされている人もいなかった。何も起きてはいなかった。何もなかった。どこかに行っていたような気がしていたけどどこにも行ってなくて、ただずっとここにいただけ。複雑な物語の中に放り込まれている気になっていただけ。

 

目が覚めたときの「なにもないじゃん」が、そのまま目を覚ました現の自分に重なって響き続けていたというか。夢か現かというけれど、現といわれるものもまた夢であって、自分は普段何重にも夢を見ているんだな、ってことを改めて思ったというか。

 

夜寝ている間に見た夢から覚めてもまだ見ている夢の自覚。そうだったそうだった。

 

「物語」というのがそもそも夢に過ぎないわけで。そこに物語を見出しているなら、まったく同じことだよね、夢も現も。

 

ほんとうは物語なんてないし、何も起こっていない。どこにも行かない、行きようがない、自分はただ「ここ」にいる、そういうほんとうのリアルを、夢によってまた思い出す。これはなんだか妙な感じで面白かった。霊的な夢だとかなんだとか、夢にはいろんな不思議な話があるけど、その内容に関わらず、そもそも夢というもの、その構造自体がとんでもなく示唆的なものなんじゃないかなーと思った次第です。不思議でもなんでもない話。