沈黙と念仏と
2015年6月12日

言葉を重ねてみてもどうにもならないな、とも思う。ほんとうのほんとうとして在るなら、もうそれは沈黙にしかならない。

 

言えることなんて何もないなあ、と、あれこれ言いつつ思うわけです。

 

いやたしかに言葉はいろんなところへ導いてくれるし、素晴らしい言い方で、それを指し示す人はたくさんいるけど。

 

しかしそれでも、「ここ」においては言葉は消えてしまうし。

 

主体も客体もない、対象がないところでは、対象を前提にした言葉自体、そもそも成り立たない。誰が誰に言葉を発するのか、っていう。わたしもあなたもいないところで。

 

そういえば大学の卒論で書いたテーマが沈黙だったんだけど、つまるところはこういうことを言いたかったのだろうなと。今思えば。まあ当時は仏教的なこともほとんど知らなかったし、いろんな文脈に触れていなかったから、かなり漠然としていたけど。それでも、まったく無価値なものとしてスルーされがちな沈黙に、何かほんとうがあるんじゃないかと感じていたことは確かだった。しかし「沈黙についてあれこれ述べる」というのもなかなかの矛盾ぶりというかなんというか…。

 

ともかく、沈黙に答えがある、というか沈黙がそのまま答えなんだよね。

 

と、ここで念仏についてちょっと浮かんだので書くけど、南無阿弥陀仏というのは、一応言葉としての体を成してはいるけど、言ってみれば沈黙の言葉なのだと思う。

 

言葉じゃない言葉というか。もうそんな言い方ばかりになってるけども。

 

言葉が無くなったところでの言葉。言葉以前の言葉。だからそれはすべての答えになるんだね。

 

一方で南無阿弥陀仏をただ言葉として称えていたら、それはただの言葉でしかないということで。

 

念仏を何遍称えようが、それはただの言葉であって。

 

親鸞さんが、ただ一度でも念仏を称えられたらそれでいいという風に言われたのもこの辺のことじゃなかろうか。

 

念仏は数ではなく、積み重ねではなく。そこに時間はなく、因果とかもなく。だって沈黙において、一度でも念仏を称えられたら、既にそれは称えられていたことがわかるんだし。常に、称えられていたことが。

 

そこではもちろん、念仏する誰かはもはやいないから、念仏が念仏するという表現にならざるを得ないよね。宇宙は完全に自動運転だっていう。阿弥陀仏というのは名前以前の名前なわけだから。念仏するというのは、すべての名前の放棄でありながら、同時にすべての名前を呼ぶことなんじゃないか。そしてそれは「わたし」の名前なんだろう。

 

とにかく、言葉以前、意味以前、分断以前のそれ、その沈黙に立ち還ってみれば、そこにすべては成就していて。それ以上の何があるのかって、もう何もないじゃん。

 

何もないんだよ。

 

 

 

 

 

 


夢も現も
2015年6月11日

夢の中で何か大きな問題に直面していた。内容自体はよく憶えてないけど、楽しい夢とか怖い夢とか訳のわからない夢とか、そういう類ではなかった。はっきりした一枚絵のような夢ではなくて、そこに改善すべき状況があるという、なんというか立体的な夢。どうしたものかと焦りつつ、うぐぐ…となっているところで目が覚めたんだけど、その瞬間、「なにもないじゃん」、と脱力した。当たり前だけど。

 

だけどそれが妙に、今目が覚めた自分にそのまま当てはまった感じがして。

 

問題が起きている場所もなく、問題を起こしている人も、問題を起こされている人もいなかった。何も起きてはいなかった。何もなかった。どこかに行っていたような気がしていたけどどこにも行ってなくて、ただずっとここにいただけ。複雑な物語の中に放り込まれている気になっていただけ。

 

目が覚めたときの「なにもないじゃん」が、そのまま目を覚ました現の自分に重なって響き続けていたというか。夢か現かというけれど、現といわれるものもまた夢であって、自分は普段何重にも夢を見ているんだな、ってことを改めて思ったというか。

 

夜寝ている間に見た夢から覚めてもまだ見ている夢の自覚。そうだったそうだった。

 

「物語」というのがそもそも夢に過ぎないわけで。そこに物語を見出しているなら、まったく同じことだよね、夢も現も。

 

ほんとうは物語なんてないし、何も起こっていない。どこにも行かない、行きようがない、自分はただ「ここ」にいる、そういうほんとうのリアルを、夢によってまた思い出す。これはなんだか妙な感じで面白かった。霊的な夢だとかなんだとか、夢にはいろんな不思議な話があるけど、その内容に関わらず、そもそも夢というもの、その構造自体がとんでもなく示唆的なものなんじゃないかなーと思った次第です。不思議でもなんでもない話。

 

 

 

 

 


どちらでもないところ
2015年6月9日

言葉が指すものを固定化して、実体として捉えると、重苦しい世界に生きてしまうというか。まあそれもそんな気がしているだけに過ぎないということではあるけど。

 

「すべてがすでにそれである」というところからすると、いろんな言葉がストンと来る。

 

煩悩即菩提とかいうけど、煩悩が菩提(悟り)に転じるとか煩悩がなくなったところに菩提があるとか、そういうことじゃなくて、煩悩が煩悩のままで煩悩でなくなる。

 

生死即涅槃だったら、生死が生死のままで生死ではなくなる。即身是仏だったら、わたしがわたしのままでわたしではなくなる。色即是空というのも、色が色のままで色でないというところで、それがそれのままでそれでない、これに尽きるなあと。

 

有るでもないし無いでもない。どちらかではなくて。

 

ありながらない。どちらも包み込んだところにただあるそれ。

 

上に挙げた言葉はどれも同じで、それがそれのままでそれでないというところに、ただ在るものが「在る」ということ。それが菩提だし涅槃だし仏だし空だし。

 

すでにどれもがどれでもなく、ただ「それ」であったというだけ。まあいつもの話です。

 

これを有る、無いのどちらかで捉えると、どちらかの状態を目指してしまうことになる。それを延々と続けてしまったりして。キリがないよね。どこに行こうとしたって、どこに行くこともないんだし。辿り着かない。

 

だけどありながらない「即」においては、目指す者も目指されるものもない。

 

結局なんだってよくて、いつもそこを根底に生きていたいなあってこと。まあそれがなかなかアレで、なんだってよくなかったりするけど。それでもほんとうのほんとうは、なんだっていい。何がどうだろうと、それでしかないんだから。