むなしさから
2015年5月27日

これまでそこに置いていた価値ががらがらと崩れてしまって、どこへ行ったらいいのか、何をとっかかりにしたらいいのか、全く分からなくなって途方に暮れる。そういうことが、何か「ほんとう」を求める人たちには当然あるんだろうけど、それはもちろん否定されることではなくて。そのむなしさは大きなきっかけになるよね、ということをここ最近また思い返している次第です。

 

有ると思っていたことが無かったこと、その衝撃。それは人を苦しめるけど、そこを受けいれてみれば、「ああまったくこれは正常なことだった」と気づく。諸行無常、諸法無我、これはまったく特別なことじゃなくて、すべてのことにおけるただの前提であって。だから涅槃寂静というものもまた、ただ当たり前に「在る」。

 

しかし何というか、そういった有ると思っていたことが無いということ、突き詰めれば「わたしというものはない」ということ、この事実を、やはりどうしても、「この私」が捉えようとしてしまうんですよね。

 

「この私」が捉えようとする限り、そこにはどうしたって「物語」が生まれる。どうしたってその物語に浸ってしまうなと。そこに「この私」が至ろうとしてしまうし、得ようとしてしまう。散々文章で「わたしはいない」を目にしていても、「何かやってしまう」んだ。それが悪いってことではない。そりゃやってしまうよ、人間だもの。

 

それをもうただひたすらに、何の物語も入れず、何の味付けもなしに、「私はいません」てことをズバっと言ってくれる人が出てきたわけだから、そりゃみんな混乱しますよ。伝えるためには相手という対象があるわけだから、多少なりとも物語って入れちゃうもんだけど、もはや彼女は伝えようともしていないわけで、だからもう何もかもをバッサリ。身も蓋もないことこの上なしという。

 

「そこまで言うか…」と呆然としてしまう方はけっこういるようで。これまで探求してきたこと、やってきたこと、そのすべての価値が、今またがらがらと崩れてしまっていたり。「あーあ、もう何がなんだかわからん!!」と。それは物語を越えたところにあると思っていた物語に置いていた価値。だけどほんとうのほんとうはそれさえもないということ。

 

私もちょっと「なんだかなー」という気分になって前回のような記事を書いたりしたけど、しかしまた、ここでやってきた混乱、むなしさは、大きなきっかけになるだろうなとも思うので、なんというか、「もう、なんでもいいな。」という気持ちです。

 

この「物語のなさ」、言ってみれば「救いのなさ」というのが、結果的に救いになるというか、まあほんとうは救いも何もないわけだけど、この徹底した「なさ」が、自我(だと思ってるもの)を揺るがすのかなって。身動きできないところまで、「完全に」追い詰められてしまって、そうなったら、後はもう降参するしかないよね。その降参は、なさずになされること。そこにはもはや1ミリも「この私」によるところはない。

 

「計らいを捨てよ」と親鸞さんも言っているけど、この完全降伏によって、初めて「明渡し」がなされるのだろうな。完全には降伏できないもんね、なかなか。そりゃ計らってしまうよ。

 

そういうことが今起きているんだろう。(起きてもないけど、ってもう文にするのも面倒だな…!)

 

とにかく、むなしさからまた始まるということで、むなしさを歓迎したらいいし、しなくてもいいけど、この私も含めてみんな大いに混乱して、むなしくなったらいいんじゃないかということです。それもまた恩寵かもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そもそも恩寵でないということはないし、恩寵だということもないし。やっぱり、なんでもいいな。既にそうなんだから。

 

 

 

 

 

 


関わっていく
2015年5月23日

なんだかんだ言っても、生きているし、生きていくんだし。そんなことを思います。「この私」は存在してないけど、働きとしての顕れはあるんだということ。(それもないと言えばないということになるけど)

 

「私もあなたも存在していない」というのは「それ」として在るところから言えばそりゃそうなんだけど。そりゃそうなんだけど、「何もありません」で終わってしまったら、身も蓋もないというか、取りつく島もない、という話です。

 

何もないところから、また「有る」世界を生きていく。誰もいないところからまた「あなた」と関わっていく。

 

結局生きることは「関わり」なんだということ、その当たり前に戻ってきて、そこからまた始まっていく。また還ってくるということを大切にしたいと、「この私」は思うわけです。

 

わたしもあなたもいなくて、何もなくて、ただ「それ」だけが在る。そりゃそうなんだけど、だからと言って、そこへ行ったきりになろうとする必要もなくて。

 

たとえば大乗仏教は「菩薩」としての在り方を重視するけど、他との関わりの中で、菩薩は菩薩足り得るんですよね。どこまでも「縁」を見ている。組み込まれている私。生かされつつ、生かしていること。手を差し伸べていくこと。

 

本来は誰しもただ「それ」として在る。如来=仏として在る。それはほんとうのこと。しかし同時に、私たちはいつだって菩薩じゃないかと。生きている限り、如来でありつつも菩薩。誰かと、何かと繋がって生きているんだから。

 

吉野弘さんは詩「生命は」の中で

 

 

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

 

 

と詠っているけど、ほんとそういうことだと思うんです。自覚の有無は関係なく、いつだって、誰もが誰かを導く菩薩であり続けているのがこの世界で。

 

その円の、循環の中で関わらせてもらっている、そこにある暖かさに目を向けていたいなと。

 

仏というのはただ大日如来だけが在る、しかし同時にお地蔵さまもお不動さまも観音さまも在るんですよね。その奥にいつも大元の働きを見つつ、個別の顕れを見ていく。

 

「この私」はいないけど、誰もが「わたし」として、仏として在る。どれもがわたしだっていうところで、別け隔てのない「慈悲」というのが腑に落ちる。

 

それはやはり暖かいし、それがいいなあと、「この私」は思います。

 

これが「わたしもあなたもいません、何も起きてないし、何もありません。」で終わってしまったら、あまりにも荒涼としていて、生の味わいに欠けるんじゃないかなって。

 

私というものはいないけれども、いないと同時にいるとも言えるんだってこと。この顕れはあるんだって。

 

色即是空で行ったきりじゃなくて、空即是色でまた顕れる。戻ってくるということ。ほんとうはどこに行ったわけでもないし帰ってくるわけでもないけど、以前とは違った見方で世界と関わっていく。そこに「それ」を、仏を見出せるかどうか、それだけの違いだけど、それはまた大きな違いでもある。

 

ないこととあることは、そもそも同時だってところから、また生き始めていく。

 

ただ「無い」の一言で終わらせる必要はない。どちらか片方だけってことではない。「生きている」というのは「まるごと」であって。そのまるごとから、どう関わっていくかということなんじゃないかな。

 

 

 

 

 


行為者はいない
2015年5月19日

禅とか悟りとかいまこことかワンネスとか非二元とかアドヴァイタとか、そういう宗教だの何だのが全部取っ払われたところでよく言われる「行為者はいない」ということ。

 

事はただ起きているっていう。

 

まあそもそも「私」がいないんだからそれはそうなんだけど、そのことに改めて気づいたというか解かり直したというか更新された感じがありました。

 

昨日、道を歩いていてツバメの巣が目にとまったのですが、そのとき不意に「あ、誰も何もやってないわ」という状態になって。

 

 

 

ツバメは誰に教わったわけでもないのに、巣を作っている。

 

自我を持たないツバメが巣を作っている?

 

いやこれはツバメが巣を作っているように見えているだけで、そうじゃない。

 

ツバメは巣を作っていない。

 

「ツバメの巣作り」ということが起きているだけだ。

 

何によって?ただ在る「それ」によって。

 

それが起こしている、というか実際は起きてもいなくて、ただ「そうである」としか言えないのだ。

 

ただ在る「それ」、そのいのち、仏さまが、そういうことに「元々」しているから、「そうなっている」というだけだった。

 

私たち人間は通常自我にまみれているから、自分がやっていると思っている。

 

誰かがやっている、起こしていると思っている。でもそうじゃなくて。

 

まったく自動に、すべてが、既に「そうなって在る」ということ。何一つ違わない。

 

ツバメの巣が作られていることと、今私がこうやって文章を書いていることと、太陽が昇ることと、何一つ違わない。

 

どこにも行為者はいなくて、ただ、「そうなっている」んだ。仏さまの意思によってそれは決まっている。

 

意思とか言うとあれだけど。

 

この呼吸も、血が流れるのも消化するのも、私がやってるわけじゃない。

 

それは分かりやすい話だと思う。
だけどそれらと、歩く、食べる、書く、話をする、何が違うというのだろう。

 

私が意思によってやっている(と思っている)ことも含めて、すべては自動に起こっているのだ。

 

敢えて行為者と言うなら、やっているのは仏さまであって、それはこれから起こることも含めて、既に起こっていることなのだと。

 

これから起こることと、既に起こったこと、これはまったく「同時」。

 

これが「即」で。

 

まるごと、宇宙はまるごと生きている。

 

そこに個別の意思はない。いや有りながら無いのだ。

 

 

 

という、改めて言葉にしてみたら相当意味不明でやばい感じになりましたが、どうだろう。

 

うーむ。

 

わかる人にはわかる文だとは思うんだけども。

 

「別れていない」ということが「ほんとう」なわけだけど、そもそも言葉自体が対象を前提にしてるんだからなかなかじれったいですね。

 

 

 

ところでさっきの「まったく同時」である「即」とか「有りながら無い」ということについては遥子さんがすごくいいこと言ってますので、気になる方はぜひどうぞ。

 

すべては脚本であり、同時に自由(「即」についての一考察)

 

ちょっと前から夫婦間で「やっぱ即だよね」と話題になっています。

 

この「即」において「自然法爾」とか「返本還源」とか言われるところの、世界のあるがまま、その完璧さが顕れてくるんだなあと。

 

 

 

話を戻します。とにかくですね、事は起こりつつ既に起きていて、起きてもいなくて、やはり誰も何もしていませんでした。

 

まとめると、世界は美しいということです。