どちらでもないところ
2015年6月9日

言葉が指すものを固定化して、実体として捉えると、重苦しい世界に生きてしまうというか。まあそれもそんな気がしているだけに過ぎないということではあるけど。

 

「すべてがすでにそれである」というところからすると、いろんな言葉がストンと来る。

 

煩悩即菩提とかいうけど、煩悩が菩提(悟り)に転じるとか煩悩がなくなったところに菩提があるとか、そういうことじゃなくて、煩悩が煩悩のままで煩悩でなくなる。

 

生死即涅槃だったら、生死が生死のままで生死ではなくなる。即身是仏だったら、わたしがわたしのままでわたしではなくなる。色即是空というのも、色が色のままで色でないというところで、それがそれのままでそれでない、これに尽きるなあと。

 

有るでもないし無いでもない。どちらかではなくて。

 

ありながらない。どちらも包み込んだところにただあるそれ。

 

上に挙げた言葉はどれも同じで、それがそれのままでそれでないというところに、ただ在るものが「在る」ということ。それが菩提だし涅槃だし仏だし空だし。

 

すでにどれもがどれでもなく、ただ「それ」であったというだけ。まあいつもの話です。

 

これを有る、無いのどちらかで捉えると、どちらかの状態を目指してしまうことになる。それを延々と続けてしまったりして。キリがないよね。どこに行こうとしたって、どこに行くこともないんだし。辿り着かない。

 

だけどありながらない「即」においては、目指す者も目指されるものもない。

 

結局なんだってよくて、いつもそこを根底に生きていたいなあってこと。まあそれがなかなかアレで、なんだってよくなかったりするけど。それでもほんとうのほんとうは、なんだっていい。何がどうだろうと、それでしかないんだから。

 

 

 

 

 

 


むなしさから
2015年5月27日

これまでそこに置いていた価値ががらがらと崩れてしまって、どこへ行ったらいいのか、何をとっかかりにしたらいいのか、全く分からなくなって途方に暮れる。そういうことが、何か「ほんとう」を求める人たちには当然あるんだろうけど、それはもちろん否定されることではなくて。そのむなしさは大きなきっかけになるよね、ということをここ最近また思い返している次第です。

 

有ると思っていたことが無かったこと、その衝撃。それは人を苦しめるけど、そこを受けいれてみれば、「ああまったくこれは正常なことだった」と気づく。諸行無常、諸法無我、これはまったく特別なことじゃなくて、すべてのことにおけるただの前提であって。だから涅槃寂静というものもまた、ただ当たり前に「在る」。

 

しかし何というか、そういった有ると思っていたことが無いということ、突き詰めれば「わたしというものはない」ということ、この事実を、やはりどうしても、「この私」が捉えようとしてしまうんですよね。

 

「この私」が捉えようとする限り、そこにはどうしたって「物語」が生まれる。どうしたってその物語に浸ってしまうなと。そこに「この私」が至ろうとしてしまうし、得ようとしてしまう。散々文章で「わたしはいない」を目にしていても、「何かやってしまう」んだ。それが悪いってことではない。そりゃやってしまうよ、人間だもの。

 

それをもうただひたすらに、何の物語も入れず、何の味付けもなしに、「私はいません」てことをズバっと言ってくれる人が出てきたわけだから、そりゃみんな混乱しますよ。伝えるためには相手という対象があるわけだから、多少なりとも物語って入れちゃうもんだけど、もはや彼女は伝えようともしていないわけで、だからもう何もかもをバッサリ。身も蓋もないことこの上なしという。

 

「そこまで言うか…」と呆然としてしまう方はけっこういるようで。これまで探求してきたこと、やってきたこと、そのすべての価値が、今またがらがらと崩れてしまっていたり。「あーあ、もう何がなんだかわからん!!」と。それは物語を越えたところにあると思っていた物語に置いていた価値。だけどほんとうのほんとうはそれさえもないということ。

 

私もちょっと「なんだかなー」という気分になって前回のような記事を書いたりしたけど、しかしまた、ここでやってきた混乱、むなしさは、大きなきっかけになるだろうなとも思うので、なんというか、「もう、なんでもいいな。」という気持ちです。

 

この「物語のなさ」、言ってみれば「救いのなさ」というのが、結果的に救いになるというか、まあほんとうは救いも何もないわけだけど、この徹底した「なさ」が、自我(だと思ってるもの)を揺るがすのかなって。身動きできないところまで、「完全に」追い詰められてしまって、そうなったら、後はもう降参するしかないよね。その降参は、なさずになされること。そこにはもはや1ミリも「この私」によるところはない。

 

「計らいを捨てよ」と親鸞さんも言っているけど、この完全降伏によって、初めて「明渡し」がなされるのだろうな。完全には降伏できないもんね、なかなか。そりゃ計らってしまうよ。

 

そういうことが今起きているんだろう。(起きてもないけど、ってもう文にするのも面倒だな…!)

 

とにかく、むなしさからまた始まるということで、むなしさを歓迎したらいいし、しなくてもいいけど、この私も含めてみんな大いに混乱して、むなしくなったらいいんじゃないかということです。それもまた恩寵かもしれないし、そうじゃないかもしれないし、そもそも恩寵でないということはないし、恩寵だということもないし。やっぱり、なんでもいいな。既にそうなんだから。

 

 

 

 

 

 


関わっていく
2015年5月23日

なんだかんだ言っても、生きているし、生きていくんだし。そんなことを思います。「この私」は存在してないけど、働きとしての顕れはあるんだということ。(それもないと言えばないということになるけど)

 

「私もあなたも存在していない」というのは「それ」として在るところから言えばそりゃそうなんだけど。そりゃそうなんだけど、「何もありません」で終わってしまったら、身も蓋もないというか、取りつく島もない、という話です。

 

何もないところから、また「有る」世界を生きていく。誰もいないところからまた「あなた」と関わっていく。

 

結局生きることは「関わり」なんだということ、その当たり前に戻ってきて、そこからまた始まっていく。また還ってくるということを大切にしたいと、「この私」は思うわけです。

 

わたしもあなたもいなくて、何もなくて、ただ「それ」だけが在る。そりゃそうなんだけど、だからと言って、そこへ行ったきりになろうとする必要もなくて。

 

たとえば大乗仏教は「菩薩」としての在り方を重視するけど、他との関わりの中で、菩薩は菩薩足り得るんですよね。どこまでも「縁」を見ている。組み込まれている私。生かされつつ、生かしていること。手を差し伸べていくこと。

 

本来は誰しもただ「それ」として在る。如来=仏として在る。それはほんとうのこと。しかし同時に、私たちはいつだって菩薩じゃないかと。生きている限り、如来でありつつも菩薩。誰かと、何かと繋がって生きているんだから。

 

吉野弘さんは詩「生命は」の中で

 

 

私も あるとき
誰かのための虻だったろう

あなたも あるとき
私のための風だったかもしれない

 

 

と詠っているけど、ほんとそういうことだと思うんです。自覚の有無は関係なく、いつだって、誰もが誰かを導く菩薩であり続けているのがこの世界で。

 

その円の、循環の中で関わらせてもらっている、そこにある暖かさに目を向けていたいなと。

 

仏というのはただ大日如来だけが在る、しかし同時にお地蔵さまもお不動さまも観音さまも在るんですよね。その奥にいつも大元の働きを見つつ、個別の顕れを見ていく。

 

「この私」はいないけど、誰もが「わたし」として、仏として在る。どれもがわたしだっていうところで、別け隔てのない「慈悲」というのが腑に落ちる。

 

それはやはり暖かいし、それがいいなあと、「この私」は思います。

 

これが「わたしもあなたもいません、何も起きてないし、何もありません。」で終わってしまったら、あまりにも荒涼としていて、生の味わいに欠けるんじゃないかなって。

 

私というものはいないけれども、いないと同時にいるとも言えるんだってこと。この顕れはあるんだって。

 

色即是空で行ったきりじゃなくて、空即是色でまた顕れる。戻ってくるということ。ほんとうはどこに行ったわけでもないし帰ってくるわけでもないけど、以前とは違った見方で世界と関わっていく。そこに「それ」を、仏を見出せるかどうか、それだけの違いだけど、それはまた大きな違いでもある。

 

ないこととあることは、そもそも同時だってところから、また生き始めていく。

 

ただ「無い」の一言で終わらせる必要はない。どちらか片方だけってことではない。「生きている」というのは「まるごと」であって。そのまるごとから、どう関わっていくかということなんじゃないかな。